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親戚のおばちゃん

親戚一同が集まってお正月を過ごしたときのお話。下の子供を寝かしつけて戻ると義姉と娘が頭を寄せ合って何やらゴソゴソしている。覗いてみると、どうやら義姉がマニキュアを塗っているのを娘が真剣に見ているのだ。

 

 

私がマニキュアを全くつけないので、娘の日常には無い光景で、それは魅力的に見えただろう。マニキュアってなんであんなに魅力的に映るのだろうか・・・私にも幼少期に同じような記憶がある、この感覚。
大きなラメとビビットな赤のマニキュアが床に転がっている。娘はラメの方を電気にかざして『綺麗やなぁー』と目をキラキラと輝かせている。

 

 

私にも幼い頃大好きなおばちゃんがいた。私の母の姉にあたる人だ。おばちゃんは私の母と違い、口紅もして綺麗な服を着ていた。キラキラしたものやいい匂いのするものを持っていた。子供の私からしたら宝物に見えるような物を沢山持っていた。そして羨望の眼差しで見ている私にそれらを惜しみなくくれたおばちゃんをぼんやりと思い出す。先日実家に行った時にたまたま見つかった子供の頃に大切にしていたオルゴール付きの宝箱。開けるとヘイ・ジュードの懐かしいメロディーが流れた。中から金閣寺の金色のキーホルダーとか、東京タワーの記念メダルとか色々出てくる。その中に昔おばちゃんに貰ったであろうゴールドの縁と白いエナメルベルトの腕時計が見つかった。すっかり忘れていたけれど一気に記憶が蘇る。その文字盤にはネスカフェの文字。景品で貰ったものなのかもしれない。今思えば、おばちゃんにとってはそれ程大事な物では無かったのかもしれない。

 

子供の時は何でも輝いて宝物に見えてたんだなー
道に落ちている石コロでさえも。

もちろん景品で貰ったであろう時計も。

 

物の本質や価値はわからないけれど、何でも宝物に見えた。世界の色はとても鮮やかだ。
私はもうズブズブの鈍い大人の頭になってしまったから、物や体験について本当に必要なものなのか?値段や価値に囚われて勝手に判断して取捨選択する。子供事に関してもそうだ。子供の代わりに “この本はまだ早い“ とか、 ”小さいからこれはまだ楽しめない“ だとか “その服変だからやめな” とか。私の主観で勝手に判断して与えたり排除したりする。それは時には必要な事なんだけれど、なるべく色んな人を通した価値観に触れさせてあげないといけないなとマニキュアで彩られていく娘のプクプクした指を見ながらぼんやりと思った。

 


ピンヒールをコツコツと鳴らし、ロングスカートをなびかせて颯爽とやってくるおばちゃんは娘にとってキラキラした人に見えているだろう。私が大好きだったおばちゃんと同じように。